気まぐれ一人旅

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【東北&北海道(4)】世界遺産に登録されている平泉を観光【中尊寺・観自在王院跡・平泉文化遺産センター】

2020年8月15日(土)〜2020年8月30日(日)の約2週間にかけて東北と北海道を旅してきた時の様子を記事にしている。

 

前回の記事はこちら↓

kimagure-hitoritabi.hatenablog.com

 

本日は2020年8月16日(日)。厳美渓の観光を終えた私は、14:43一ノ関駅発の電車に乗り、平泉へ向かった。一ノ関駅から平泉駅までは2駅であり、14:50に到着した。

 

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平泉駅

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レンタサイクルもあったらしい。今回は徒歩で観光したのだが、平泉の主要スポットはそれぞれ少し距離があるため、レンタサイクルはかなり便利なように思う。料金は営業時間については各自で調べていただきたい。

 

さて、平泉は正式には「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」として世界遺産登録されており、中尊寺毛越寺(もうつうじ)・観自在王院跡・無量光院跡金鶏山の5つの資産から構成されている。

 

私は今回、観自在王院跡→平泉文化遺産センター→中尊寺の順で観光した。後から振り返ると、レンタサイクルを利用すればもっと効率良く、たくさんのスポットに回れたなあと少し後悔している。特に、この日は暑かったので、歩き回るのは少々バテた。次回来た時はレンタサイクルを利用したい。

 

平泉駅から観自在王院跡までは徒歩10分くらいだっただろうか。

 

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観自在王院跡へ向かう途中、平泉駅方面を振り返ると、山に"大"も文字があるのが見えた。後で調べると、この山は束稲(たばしね)山といい、藤原四代公の冥福を祈るなどの目的で毎年8月16日に大文字送り火が行われているらしい。私は夜には盛岡に移動してしまったため見ることは出来なかったが、この日はちょうど8月16日だったため、この後におそらく送り火が行われたのだろう。また平泉に来る機会があれば是非見てみたいものだ。

 

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観自在王院跡の舞鶴ヶ池

 

観自在王院藤原氏二代目基衡(もとひら)の妻が建立した寺院だとされおり、1573年に焼失したと伝えられている。すぐ近くには藤原基衡が建立したとされる毛越寺が隣接している。現在は史跡公園となっており、桜の季節に散歩するのも良さそう。

 

観自在王院跡を見た後は、平泉文化遺産センターに向かった。観自在王院跡から平泉文化センターまでは徒歩10分ほどだった。

 

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平泉文化遺産センター

 

平泉文化遺産センターでは、藤原氏を中心とした現代までの平泉に関する歴史が時系列に紹介されていた。また、発掘調査で出土した重要な資料も多数展示してあった。深く勉強したかったのだが、暑さで少々バテていたため集中力に欠け、どちらかというと涼んで休憩しに来たという感じになってしまった。入館料は無料であった。

 

その後は中尊寺に向かった。中尊寺は、全九年合戦・後三年合戦で犠牲になった人々を弔うために、藤原氏初代清衡が1105年から事実上の創建を始めたとされている。奥州藤原氏はおよそ100年にわたって戦のない平和な時代を迎えたが、三代目秀衡が鎌倉から逃れてきた源義経を匿ったことで事態は一変した。秀衡の後継・四代目泰衡は源頼朝の圧力に屈し義経を自殺に追い込み頼朝との和平を模索したが、結局、関東の後背に独立政権があることを恐れた頼朝は文治五年(1189年)7月、義経を長らく匿っていたことを罪として奥州に出兵。贄柵(秋田県大館市)において家臣の造反により泰衡は殺され、奥州藤原氏は滅んだ。その後、中尊寺は徐々に衰退していき、建武四年(1337年)の大火により金色堂を残してほぼ全焼した。江戸時代からは伊達氏の保護を受けたため修理が進んだ。また、1950年には、800年もの間、金色堂須弥壇(しゅみだん)に安置されていた藤原氏四代の遺体の学術調査が実施され、どの遺体が誰のものか判明した。さらに、1962年には金色堂の解体修理を6年かけて行っている。

 

Googleマップでは平泉文化遺産センターから中尊寺まで徒歩19分と出ていたのだが、それは平泉文化遺産センターから"月見坂"と呼ばれる中尊寺の表参道までの所要時間であった。中尊寺の敷地は広く、実際は本堂に着くまでには30分近く歩いた。しかも、月見坂とはその名の通り坂で、中尊寺の本堂は標高130mほどの東西に長い丘陵に位置しているため、本堂に行くためにはこの坂を上る必要がある。

 

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月見坂

 

正確には覚えていないのだが、おそらくこの写真は月見坂のスタート地点付近で撮ったものだ。

 

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こちらも正確には覚えていないのだが、おそらくこの写真は月見坂を上りきったところで良い眺めの場所があったので、そこで撮ったものだ。後で中尊寺のHPを見てみてると、月見坂を上りきると"東物見台"と呼ばれる物見台があると書いてあったのでそこで撮ったものかもしれない。ただ、HPにはここから北上川が見えると書いてあったが、画像からは川は確認できなかった。

 

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本坊表門(岩手県指定文化財)

 

本堂の正面に建つ表門は、薬医門とよばれる形式の門とのことだ。伊達宗勝(伊達政宗の息子)の屋敷門を移築したものと伝えられているが、移築のいきさつは定かではないらしい。

 

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中尊寺本堂

 

本堂は明治42年(1909年)に再建されたものらしい。

 

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本尊は丈六の釈迦如来。像高2.7m、台座・光背を含めた総高は5mに及ぶ。清衡が「丈六皆金色釈迦」像を鎮護国家大釈迦として安置したことにならい平成25年(2013年)に造顕・開眼供養された。

 

本堂を見た後は、金色堂に向かった。金色堂に入るには拝観料800円を払って拝観料を買う必要がある。拝観券を受付のようなところで購入すると、この拝観券で金色堂の近くにある護衛蔵にも入れるとのことだったので、まず護衛蔵に行ってから金色堂に行くことにした(今回は行かなかったが、後でHPで調べるとこの拝観券があれば経蔵、旧覆堂というところにも行けたようだ)。

 

護衛蔵と金色堂でも写真は撮ったつもりだったのだが、データがどこかに消えてしまった(または単に撮り忘れた)ようで、写真は残っていない。護衛蔵は奥州藤原氏の残した文化財3000点あまりを収蔵する宝物館で、平安期の諸仏、国宝中尊寺経、奥州藤原氏の遺体の副葬品などが納められていた。金色堂は、中尊寺創建当初の姿を今に伝える唯一の建造物で、堂の内外に金箔を押した「皆金色」の阿弥陀堂である。金色堂の内部では音声ガイダンスのようなものが流れていて、孔雀がデザインされた中央の須弥壇の中には、奥州藤原氏の初代清衡、向かって左の壇に二代目基衡、右の壇に三代目秀衡の遺体と四代目泰衡の首級が安置されているとの解説があった。

 

金色堂を見た後は、中尊寺を出て平泉駅へと戻った。平泉での滞在時間は2時間半ほどで、暑さにバテたりはしたが平泉の歴史について色々と学ぶことができてとても充実したものだった。一方で、2時間半ではまだまだ観光できなかった部分もあるため(レンタサイクルを使えばもう少し効率よく観光できたのだが)、是非ともまた来たいと思った。

 

この日は盛岡で宿泊するため、17:34発の盛岡行きの電車に乗った。盛岡での内容は次回の記事で書こうと思う。盛岡では特に観光はしていないのだが、盛岡三大麺と呼ばれる麺のうち、"盛岡冷麺"と"盛岡じゃじゃ麺"を食べた(残りの1つは"わんこそば")。次の記事もお楽しみに〜。

 

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